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有限会社竹内快速鋸は、鋸(ノコギリ)、包丁、鎌、包丁研ぎ器など、お客様に愛される商品を製作しております。

会社案内

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いつの時代も庶民に愛される続ける製品は
洗練されたスタイルや機能が充実したものと思います。

当社が市場に送り出す製品はすべて極限に近くまで用途を追及し、
お客様から道具とはこのような物でなければと思わせる道具作りに
情熱を燃やしております。

主力の鋸や鎌・包丁・研ぎ器以外に発明したものは多々あり
折を見て随時、製品化をし発表して行きたいと思っております。
商号 有限会社 竹内快速鋸(タケウチカイソクノコ)
代表者 代表取締役 竹内 英治(タケウチ エイジ)
  • 秋田県出身。12歳より鋸鍛冶の元に師弟奉公。
  • 両刃鋸の修行のため22歳で三条に来る。
  • 両刃鋸では日本一と言われる深沢伊之助工場の下仕事をする。
創業年月日 昭和54年3月1日
設立年月日 平成5年
資本金 3,000,000円
所在地 〒955-0843
新潟県三条市条南町18-4
工場 〒955-0832
新潟県三条市直江町4丁目1-17
事業内容 鋸製造業
連絡先 T E L:0256-34-0233
F A X:0256-34-0234
E-Mail:info@takeuchi-noko.com

ご挨拶

 私が弟子奉公した昭和30年代は鋸、鉈、金槌が生活必需品であった。また食糧難でもあり、生きることに皆必死で今の生活とは比べようもない。何しろ十分に腹が満たされないのだから子供は皆痩せていた。弟子奉公の間は親方の知り合いの農家の手伝い。また燃料になる薪を得るため国有林の組合に親方が加入していたため杉苗の植え付け、下刈り、防火線の刈り払い等にはいつも弟子の私が行くこととなった。山仕事、農作業等には夜なべ仕事に草鞋作りで自分の履く草鞋は自分で作っていた。
今の若者には1日だけでも我慢が出来ないだろう。そんな生活でも6年の年季は長く。正月、盆、祭りは3日の休みを貰って帰るのだが母の傍が恋しく、すぐ帰るつもりが畑の草取りとか何とか理由を付けて10日ほどして戻ると敷居が高くてそっと帰るしまつなのだが、師匠は何も言わず一言の文句も言わなかった。
だんだんと仕事も慣れてきて仕事に身が入るようになり夢中でセンという道具で鋸を削っていると、お昼だよ。と声がかかるとセンの柄が手から離れず、指1本1本伸ばして離したものです。

 やがて年季も明けて今度は秋田県横手市に職人に入りました。職人となれば腕の勝負です。19やそこらの人間が山から下りてきた年配の樵と同等に話すのですから、また鋸の狂いの取り方を教えるのですからそこで人と人との信頼が生まれるのです。しかし弟子の頃教えられた両刃鋸や導突鋸を作りたいとの思いが強く、1人の知り合いのいない金物の三条に来てしまったのです。三条は鋸の本場で兵庫県の三木市と生産を二分していて三条は分業で成り立っていたのです。私の習い覚えたのは手作りで最後まで作る事でした。
横手で仕事をしたのは当時全盛だった窓鋸を作っていたのです。三条に来て、当時両刃鋸では日本一と有名な深沢伊之助鋸工場の仕上げの鋸目立てをするようになりました。私には頼る所は何もなく、ただただ自分の腕を信じつつ仕事を致しました。仕事はどんどんと増えて、依頼された鋸がいっぱい溜まるようになり、すぐに出来ないため錆が入ったりしたのです。これには私も困り仕上の目立ては中止して、生材の目立てをすることに致しました。生材の目立てほど難儀な事はありません。ちょっとでも気を許すとヤスリの刃を欠いてしまうのです。鋸刃の形にプレスされた鋸材に、仕上げ目立てがしやすいように一本一本ヤスリで鋸刃を作っていくのです。しかし私は自分の作銘で鋸を作りたいという願望がありました。一つの出来事が目立て業から足を洗って鋸業者として名乗りを上げることになるのです。

 取引先の金物問屋の専務が参られ、竹内さん名古屋に大きい問屋がいる三条の鋸はどうにも買ってもらえない、貴男の腕で精一杯頑張って売れるような目立てをしてくださいませんか。との話に受け取りました。両刃鋸で私の目立ては三条一高くて1丁200円でした。焼入れ鋼の目立ては20円です。それでも三条目立て組合は200人はいたでしょう。1週間して出来上がり持っていかれ、その後半月ほどして帰ってこられ、竹内さんいやー驚いた。私も自慢して差し出した鋸をそこの社長がじっと見ていたが、裏からタルキ1本持ってきて目の前で切ってみたら、うーんいい職人を見つけたな。と言われ注文を貰ったというのです。しかしその後が悪かった。200円で作った目立てを185円でしてくれというのです。私は黙って私の目の前に立てかけて置きました。1週間経ち取りに来ましたが出来ていませんと話したら、すぐに掛かって下さい。出張に出ますのでその間にどうしてもして下さい。と念を押して帰られました。一月経ってまだ出来ていないのを見て大いに怒り、お前は景気ぶってと散々悪口を言って帰っていかれました。そのことから目立て業は辞めることにしたのです。自分でも鋸を作れる腕を持ちながら人の下仕事をして馬鹿らしい。もう辞めたと新しい道へと進む事としたのです。

 すぐに独立しようとしても私には工場もなく、また機械もない。そこで三条の上手な職人を探し、私の思い通りの鋸の半製品を作ってもらうことにしたのです。3名の職人を探し出し私が見本を作り、この様に半製品として一月に600丁ほどの半製品を作り出し、市内の問屋にセールスしました。それまではどこの問屋とどの職人とはっきり決まっていて、その問屋の言うがままの問屋と職人の関係でした。そこへ私がこの鋸を見て下さいと買って下さいなど言ったことはありません。それでも売れました。あの鋸は切れる。評判は評判を呼んで作るのが間に合わないほど売れました。しかし私が売り出したころからそれまでは売れていた鋸も景気に陰りが出て売りにくくなったのです。それまでは職人がセールスにまわる事はありませんでしたが、私の真似をしてセールスする方が出るようになりました。人が私の真似をして売り歩くようでは私も人並みになってしまう。もうやめようとスッパリやめました。当時三条鋸振興会はメーカー250社、目立て組合は200名を超えていましたが、この不景気で三条鋸業界が消滅する兆しとなった事は知る余地もなくそれ以来、年毎にメーカー数が減り続け現在は当社を入れて数社となったのです。
大工さんが暇になれば鋸は売れない。
時代にあった鋸を作らなくてはならん。
当時新建材と言う銘木を薄く製材。それを合板に貼り合わせ天井板にしたものです。あまりにも木目が良く大工さん達は馬鹿にしていましたが、あっという間に価格の安さに普及したのです。正目から板目まで製品はだんだんと品質も良くなると天井板に本物を使う人は皆無となったのです。廊下の板も節なしで固い建材が出ました。ところが木材の縦横が交互に糊で固めていますので、鋸は目立てをしたばかりの鋸でもすぐに切れなくなるのです。私はこれに挑戦して切れる鋸を作ろうと何度も新しい鋸を作って大工さんに使ってもらい駄目だとの声に5、6回は無駄でしたが私の頭の中を弟子の頃、大八車の轍を作る鋸を作ったのを思い出し、その刃の形状を再現しようとしたのですが手持ちの機械ではうまくいきません。うまくいかないところは手作りで仕上げ、大工さんの所へ持って行ったのです。大工さんはまた来たなと思い、今忙しいのでそこに置いて行ってと言われ私もまた同じかもと思いここに置いて行くからと、どうせだめだろうと思い一月ばかり行きませんでした。それからふと思い出し大工さんの所に行ってみました。どうだったと聞きますと、うんそういえば廊下を張る時は必ずあの鋸を持っていくみたいだよとの声。じゃあその鋸を貸してくれ後で新品をやるからと貰ってきました。刃をよく見ますと使う割には刃はしっかり付いていました。これをもっと研究して使いやすい鋸にしよう。私の心ははやり全くそれまでは誰も見たことのない両刃鋸を作り上げたのです。売れました。売れました。東京晴海の展示会に間口一間ほどを借り実演販売しました。私が1丁2400円で卸した鋸が1丁1万円で売れて50丁すべて1日で売りきれました。それからは毎日新しい鋸の催促に体の休まる暇はありません。
夏の暑い中私の住所を市役所で聞き千葉からお客がきました。晴海の展示会で鋸を買ったとのこと。私も大勢のお客さんの中ですからさっぱりわかりません。お客さんも私を見て違う方だと申します。私も実演販売の時はスーツを着て、頭も床屋に行きスカッとして行きますが仕事中は頭はぼさぼさ、暑いからシャツ1枚でダラーとしていますからだんだんと話をしている間に波長があってきて、やっと2人で握手をしたわけです。
話の内容は自分の所は仕事に欅を使う事が多い、それには今までは対抗できる鋸がなかった。もう1丁ほしいので三条まで来たとのこと。私も大いに感激。2丁買ってくれましたので、1丁サービスいたしました。帰られた後から千葉の名産ピーナッツを一斗缶で送られてきました。しかし両刃鋸では作る手間が大きく量産がきかず私以外では作れず、なんとかしなければと思っておりましたが、私の両刃鋸が目立てに出したら全然切れなくなったと返品されてきたのです。旅先の目立て屋さんはこんな刃型の目立て直しは経験ないのですから全部横引き刃に直してあるのです。これでは切れる道理はありません。これをヒントに全部機械で目立てをすることに考え、その刃型も考え出し協力者も出て片刃快速切鋸の誕生となったのです。お客様たちは快速列車をイメージするのですが、私の心は心地よい速さで切る鋸という意味なのです。快速鋸を出発点として快速切を横引き刃とした替刃式両刃鋸とホームセンター用として今まで見たことのない鋸を次々と完成しました。0.2㎜と極薄の華道鋸をハンドバックに入るように作り売りだしたり、東京ガスのポリエチレン配管切断用の鋸を作り1丁1万円で作り手鋸式カッターと名前を付け収めましたが、使う方達の間では手鋸式カッターではなくなんとギロチンソーという名前が付けられていました。私も時間を計りきってみましたがグリーン色のガスの本管が約1分掛からず切れたのは驚きました。三年ほど続きましたが相手の担当者が変わり新しく担当になられた方は、餅は餅屋で鋸はどこでも作れるとの話に。それではそうしなさいときっぱりと止めました。他の鋸工場は量産をし更に安くユーザーに届くようにしています。当社はその道を通らず切れ味本位のお客様相手の仕事です。仕事が少なくなれば作るのをストップします。今のところは順調です。ホームセンターなどには積極的な売り込みはしておりません。外国の安い商品も必要でしょうが私の鋸が必要でなくなればやめるまでです。

 私が研究してきました雨樋カバーに取組んでから16年ほどとなります。完璧な製品を作りたい。失敗を繰り返し倅も家内も何も言わなくなりました。取付けに手の掛らないネジやナットにいらない結束などのややこしいことはしたくない。雨樋カバーの取付けは高所作業です。16年目にしてやっとワンタッチで取付けが完成する方法を考え出しました。いつも利用している特許事務所の所長が発明協会に申請すべきと言われましたが、私はそんな事より誰でも取付け取外しがこれで簡単になったと思っています。

独立後の歩み

①● 片刃快速鋸を発明。大ヒットとなる。
ビニールチャック片閉じ方式を発明。鋸袋に採用。発売。人気となる。現在のファスナーの片閉じ方式。
③● 快速両刃鋸を発売。晴海の展示会で大人気となる。
④● 縦横自由に切れるハンドソーを発明。アメリカ スタンレイ社を訪問。世界一と絶賛される。オーストラリア スタンレイ社に2万丁輸出するも円高で断念。
昭和54年、自動目立機の発明(鋸刃を二動作で30枚作る)、新潟県より補助金の助成を受ける。
360度変形砥石修正機開発、三条市より補助金の助成を受ける。
技術開発にて三条市より表彰。
⑧● ガキ大将両刃鋸を発明。それまでの両刃鋸は変形の研削のためひずみ取り研削と何回となく繰り返し仕上げていく工程を1回で完了する方法を発明。製品の精度、価格の安価に大ヒットとなる。
発明賞(鋸刃)発明協会より表彰。
名刀剪定鋸発売し大ヒットとなる。
⑪● 0.2㎜極薄の花鋸を作る。ハンドバックに入る鋸として作る。
⑫● 東京ガスの依頼でポリエチレン本管切断用手鋸式カッターとして作る。太い本管が1分で切断できる。作業現場では別名ギロチンソー
⑬● スペシャルソーを発明。ホームセンターの実演販売専門で売れる。
包丁研ぎ器スーパー研師を発明。
雨樋カバーでIDS準大賞受賞、財団法人にいがた産業創造機構より表彰。グッドデザインを始め、受賞は十数回に及ぶ。
切れ味よく、また5、6回こするとすぐ刃の付く小鎌の発明。いくら名人でも鋼の性質を変える事は出来ない。熟練の技と鋼の性質を十二分に生かすことでユーザーの要求に応えられる。
ハイレグ曲線包丁研ぎ器の発明。
替刃式角度自在草取立鎌の発明。
多目的熱交換器の発明。
鋸刃変形窓鋸の発明。切れ味世界一に再現。

(●は水害で機械流出のため廃止)

雨樋カバーにはネジは必要とせず金具の上に断面が重ならなくとも一向にかまわず、前回のネジが少しでもずれると取付けが困難という欠点を回避した面倒な部分はなくワンタッチで取付けできるよう考え完成したいと思っています。
研究中の製品は現在の包丁研ぎ器の寿命を倍に伸ばす研究
研究中の包丁研ぎ器を一万回以上研げる製品の研究
マスク 人の吐き出す汚れた空気は一気に外に一本の管を使い、吐き出す事と吸い込む新鮮な空気が同時に可能となる方法を発明したが人の顔には形状が何種類にも分かれており、マスクの空気の自然に入るマスクの周囲は顔に密着しなければならず、相当の資金が掛るため今は休んでおりますが、完成すれば一日中マスクをしても苦しくならないマスクです。

昭和55年 活路を国外に求めて

アメリカ コネチカット州ニューブリテン スタンレイ本社を訪問
日本では木材の縦横を切る鋸として両刃鋸があります。日本人はそれが普通と思い使っているのですが外国にはありません。ハンドソーは横引きをクロスカットソー、縦引きをリップカットソーとして使われています。そこに縦横自在に切れる快速ハンドソーを持ち込んだのですから注目されました。ハンドソーに合わせて燕市のヤスリメーカーにお願いして特殊なヤスリを作ってもらい、また目立用万力を考え持参。スタンレイ社の工場内で目立の実演を見せました。一方方向に押すだけで下刃と背刃を同時に刃を付けるヤスリです。夜にはレストランに招待され食事の終わりにスタンレイ社からと極東支配人で副社長のハドロー氏より竹内の鋸は世界一と言われた言葉にアメリカに来たのは無駄ではなかったと目に涙の浮かんだのが昨日のように思い出されます。その後スタンレイ社が世界137ヶ国に売りたいとの話となり大いに期待しましたが見本を送るたびにトーンが低くなり最後はギブアップとなりました。その原因が分からず無念でしたが後から輸出関係の方から聞いた話では後から後から来る見本はスタンレイが作れないと判断。スタッフが解散との事。売ろうと思い開発した大型の機会。剣が峰に立たされましたが思案を重ね今までなかった鋸刃を発明それが名刀剪定鋸として絶賛を浴びるのです。

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